浅田真央、感動のラストパフォーマンス。栄光と挫折と家族の真実

フィギュアスケーター浅田真央が、現役としての最後の演技となる、ソチオリンピックのフリースケーティングで、自己ベストを叩きだし、有終の美を飾りました。両親の献身的な援助に支えられ、競技を続けてきた浅田真央、一流選手になってからは、一家を支え続けてきました。母は、48歳の若さで早世、父親は、ホストとして生計を立て、不足の分は借金を重ねながら、真央のフィギュアスケートに賭けてきたのです。

 

スポンサードリンク

真央に賭けた母の執念と陰で支え続けた父親の思い

フィギュアスケーター浅田真央、愛知県名古屋市出身、1990年生まれの23歳、現在は、中京大学体育学部の所属です。

真央は、3歳の時にバレエやピアノ、体操など9つもの習い事を始めています。

バレエを習わせたのは、バレエダンサーになりたかった母の匡子さんが、叶えられなかった自らの夢を、舞、真央という二人の娘に託したことが理由です。

真央がフィギュアスケートを始めたのは5歳の時、フィギュアスケートのジャンプで、足首を強化し、バレエの上達につなげることが目的でした。

ところが、フィギュアスケートで、メキメキと頭角を現した真央は、小学校3年の時、全日本の新人発掘合宿に招集されました。

小学校6年では、特例として、全日本選手権に出場して、”フィギュアスケートの天才少女”と呼ばれて、全国にその名を知られるようになります。

フィギュアスケートは、とてもお金のかかるスポーツで、競技を続けるには、多大な経済的な負担がかかります。

ジュニアでも年間数百万、舞、真央の2人なので、両親の負担は、相当のものであったはずです。

真央は、順調に才能を伸ばし、全日本ノービス選手権(10~14歳)では、2000-2001シーズンと2001-2002シーズンのBクラスで、2002-2003シーズンと2003-2004シーズンでAクラス、それぞれ2連覇を達成しました。

ジュニア(13~18歳)デビューとなった2004-2005シーズン、ジュニアグランプリ (JGP)で出場した3戦すべてを優勝という断トツの力を見せました。

全日本ジュニア選手権でも初優勝し、初参加のシニアクラス(15歳以上)の全日本選手権でも2位となっています。

2005-2006シーズンからは、シニアの国際大会にも参加、GPシリーズ中国杯で2位、エリック・ボンパール杯では初優勝を果たし、自身のデビューを飾りました。

同年のGPファイナルでは、世界ランク1位のイリーナ・スルツカヤを破り、日本代表選手として村主章枝以来2人目の優勝を果たしています。

2006年トリノオリンピックへの出場は確実と見られていましたが、ISU(世界スケート連盟)の出場規定にわずか87日足らず、出場を逃しました。

トリノでは、実績に劣る荒川静香が出場し、金メダルを獲得し、明暗を分けました。

浅田真央とオリンピックとの因縁はここから始まっています。

真央の失意とは裏腹に、日本では空前のフィギュアスケートブームが到来し、真央の人気も沸騰することになりました。

浅田真央のその後の実績

2006-2007 NHK杯1位(ISU歴代最高得点)GPファイナル2位(2度の転倒)世界選手権2位(フリーISU歴代最高得点)
2007-2008 エリック杯1位スケートカナダ1位、GPファイナル2位(SP6位)全日本選手権1位(2連覇)四大陸選手権1位
2008-2009 世界選手権4位、4大陸選手権3位、NHK杯1位、エリック杯2位、GPファイナル1位全日本選手権1位(3連覇)
2009-2010 バンクーバーオリンピック銀メダル、世界選手権1位4大陸選手権1位全日本選手権1位(4連覇)
2010-2011 世界選手権6位、NHK杯8位、4大陸選手権2位、全日本選手権2位
2011-2012 世界選手権6位、4大陸選手権2位、全日本選手権1位、NHK杯2位、GPロシア杯1位、GPファイナル出場辞退(母親危篤で帰国)
2012-2013 世界選手権3位、4大陸選手権1位NHK杯1位GP中国杯1位GPファイナル1位全日本選手権1位
2013-2014 NHK杯1位スケートアメリカ1位GPファイナル1位、全日本選手権3位、

真央の明るい人柄と、笑顔、ストイックに競技に取り組む姿勢が好感されて、好きなスポーツ選手ランキングでは、常に上位にランクされ、2013年も女性部門での1位を維持しています。

残念ながら、今季限りで引退を表明している浅田真央にとって最後の大会となるソチオリンピックでは、SP(ショートプログラム)で16位と出遅れ、フリーで自己ベストを更新して巻き返したものの、6位に沈みました。

とうとう浅田真央に、オリンピックの女神が微笑むことはなかったのです。

真央の不運の最初は、2006年のトリノオリンピックに参加できなかったことに始まります。

ジャンプに求められる技術が高度化したため、テクニックがあって、体重の軽い浅田は、最も有利であると考えられていました。

出場できれば、金メダルの可能性は、荒川よりも高いだろうというのが専門家の一致した意見でした。

真央がオリンピックで金メダルを取れなかったことには、いくつかの理由があります。

わずか87日早く生まれてしまったために、大きなチャンスを逃したことが第一の理由です。

第二の理由は、ジャンプで苦手としているルッツやサルコウの採点が厳格になり、真央にとって不利に働いたことです。

これを意識するあまり、全体のバランスを崩し、転倒する場面が多く見られました。

スポンサードリンク

第三の理由は、メンタル面での弱さです。

ファンや、関係者の期待が重圧となって、10代半ばのような、伸び伸びした演技ができなくなってしまったのです。

荒川静香の引退以降、安藤美姫や、村上佳奈子とフィギュアスケート人気を支えてきましたが、他の二人がスランプに陥ったことで一人で女子フィギュア界を支えなければならなくなりました。

連盟から多くの支援を受けなければ、競技生活を続けられない選手にとっては、連盟の期待は、プレッシャーになってしまうのです。

荒川の金メダルや、真央の活躍で、2006年6月末に約4,6億円だった日本スケート連盟の「正味財産」は、2013年では、およそ3倍の約13,6億円まで膨んでいます。

連盟の収入の大半は、大会のTV放映権料です。

2006年当時は5,000万円だったものが、2013年には2億円にまで高騰しています。

浅田真央の貢献度は、はかり知れません。

2008年のGPファイナルの優勝後に、フジテレビ「情報プレゼンター とくダネ!」の司会者小倉智昭が、「浅田選手よりもキム選手のほうが実力が上」と語り、視聴者の批判を浴びました。

これを聞いた真央が精神的に落ち込み、一時期は練習の意欲を失ったというエピソードもあります。

後に「情報プレゼンター とくダネ!」は、不適切な表現であったと謝罪しています。

2011年に、最愛の母匡子さんが亡くなったことも、痛手だったでしょう。

この時、グランプリシリーズ出場のため、カナダに滞在していました。

容態が悪化したとの連絡を受けて。急きょ出場を辞退して、帰国しましたが、最期を看取ることは、できませんでした。

この時も、フジテレビ「情報プレゼンター とくダネ!」でこの話題を取り上げ、

「真央がもっと早く辞退していれば、他の選手が出場できたのに」とアナウンサー(笠井信輔らしい)が発言、

MCの小倉智昭も、母匡子さんの日ごろの行動について批判的な発言をして、顰蹙(ひんしゅく)をかいました。

この話には伏線がありました。

2008年の「キムヨナの方が実力は上」報道の直後、母匡子さんが直接フジテレビに電話をして、「なぜ真央を応援してくれないのか」と抗議、プロデューサーを4時間にわたって、詰問したということがあったのです。

これに不快感を持ったことが、小倉や男子アナ(笠井信輔らしい)のこのような発言につながったようです。

小倉はこのことを、「小倉智昭のラジオサーキット」で不快感を露わにして、語っています。

何があったとしても、危篤状態にあって、反論することのできない人間を、公共の電波を使って批判することは、人道上でも、放送倫理上でも許されることではありません。

放送局の身内をかばう体質は、人を傷つけることも厭わないのでしょうか。

このことでも、真央はとても傷ついています。

匡子さんは、その48年の生涯のほとんどを、舞、真央の二人の姉妹に捧げました。

▼在りし日の浅田真央の母、匡子さん

不幸にも20数年前から、肝臓を患い、薬で抑えながらの生活を送っていたのです。

数年前からは、更年期障害にも苦しんでいたようです。

母の負担を減らすために、運転免許を取って、練習には自分で運転して出掛けるようになりました。

母の容態は、次第に悪化して、2011年には、担当医から、手術を受けなければ、ソチオリンピックまでは生きられないとまで言われていました。

手術とは、生体肝移植のことで、HLA(ヒト白血球型抗原)が適合するドナー(肝臓の提供者)が必要でした。

むろん血縁者に、適合者がいる確率が高いので、夫敏治さん、舞、真央も適合検査を受けました。

その中で最も適合したのは、姉の舞でした。

舞はドナーになることを了承し、一度は舞から肝臓をもらうことを決断しましたが、直前になって拒否したのです。

結局適合率の低い夫敏治さんからの肝臓の提供を受けて、2011年8月に、手術を行いましたが、予後はおもわしくなく、12月に容態が急変し、48歳の若さで亡くなってしまいました。

母との二人三脚で、競技生活を続けてきた、真央の喪失感はとても大きなものでした。

このシーズンの浅田は、スランプに陥って、成績は奮いませんでした。

その後立ち直って、再び活躍を見せることになっています。

スポンサードリンク

ほとんど表面に出ることがない父親の敏治氏(現在55歳)は、早くに父を亡くし、水商売で身を立てた苦労人です。

180cm近い長身、ロマンスグレーを横分けにした風貌は歌手の玉置浩二を彷彿とさせる2枚目です。

▼父の敏治氏

母匡子さんも、子供のころに両親を亡くし、姉と二人で苦労をして育っています。

青春らしい青春をすごせなかった2人が、名古屋の繁華街で出会い結婚しました。

父親は独立して、ホストクラブ「カーネギー」の経営に乗り出し、繁盛店になっていきます。

舞、真央、2人の娘に恵まれ、真央誕生の翌年には、3階建の新居も完成しています。

ところが、舞、真央が、フィギュアスケートに才能を見せたことで、状況は一変しました。

実力が認められて、スポンサート契約ができるようになるまで、フィギュアスケートを続けるめの費用は、全部自腹で賄わなくてはなりません。

フィギュアスケート選手が、1年間活動するには、少なくとも数百万から1,000万円かかると言われています。

いかに繁盛店とはいえ、その収入だけで、新居のローンと、フィギュアスケートの費用を捻出することはできません。

当然借金をすることになり、2005年8月に、土地建物を担保に差し出し、大手消費者金融から最大1,300万円も借りています。

この当時を振り返って、母匡子さんは、「あの頃が一番苦しかった、破産してもおかしくなかった」と述懐しています。

幸い2005年12月に、15歳にして真央はGPファイナルで優勝し、数社とのスポンサー契約が成立、年収は1億を超えるようになりました。

それでも、消費者金融の根抵当権が外れたのは2007年年4月、住宅ローンの完済は2010年9月のことです。

真央の収入は育成に投資し、返済は後回しにした結果だと言われています。

この後父敏治氏は、水商売から足を洗い、名古屋の歓楽街から、ひっそりと姿を消しました。

父は自らの過去が話題になることは、舞、真央のマイナスになるとの考えから、決して表に出ることはありません。

取材に応じることもなく、メディアが直撃しても、マネージャーに阻止されるという徹底ぶりです。

現在、中京大近辺のマンションでひとり暮らしをしていて、行きつけの定食屋で、ひとりで好物の納豆を食べる姿が、しばしば目撃されているようです。

引退した真央と一緒に暮らせる日は来るのでしょうか。

2歳年上の姉舞も、フィギュアスケーターで、2006年四大陸選手権での6位が、キャリアの最高です。

アマチュアでの実績は、真央に遠く及びませんが、両親と共に、真央を精神的に支えています。

現在は、プロフィギュアスケーターとして、アイスショーに出演するかたわら、解説者、タレントとしても活動しています。

2014年2月には、交際している男性がいることを公表し、話題になりました。

「アスリートではない」と話したので、記者から「一般の男性ですか?」と質問されましたが、

「うーん」と応えなかったことで、タレントや業界関係者ではないかと、人物の特定が始まっています。

真央は、子供のころからフィギュア漬けの生活で、恋愛する時間などありませんでした。

理想の男性のタイプは、鬼嫁北斗晶の夫の佐々木健介のような人と語っています。

早熟の天才フィギュアスケーター浅田真央は、オリンピックで金メダルを取ることが、できませんでした。

でも、最後のフリーの演技で、ソチオリンピックの女神は、自己最高点を更新するという形で、微笑んでくれました。

今後、引退した浅田真央が、すべての呪縛から解放されて、伸び伸びと暮らしていくことを願ってやみません。

関連記事:浅田真央引退 お疲れさまそしてありがとう 悲運のアイドルアスリート
福原愛、父の急逝でわかった家族との確執と家計を支え続けた人生

記事に共感していただけたら、下のボタンを押してください。


コメントをどうぞ

メールアドレス (必須・公開されません)
コメント本文

  • 投稿いただいたコメントは、管理者のチェック後掲載しておりますので、即時には反映されません。