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吉本興業の2,000字に及ぶ”決意表明”に漂う無力感の正体

エンタメ

人気収入共にトップクラスの宮迫博之氏までが闇営業にかかわっていた衝撃の大きさ

自社に所属する13人ものお笑い芸人に謹慎処分(4人は無期限謹慎)を下したお笑い界の巨人”吉本興業”が、2019年6月27日、公式HP上に2,000字を超える長文の”決意表明”なる文章をアップした。

吉本興業の決意表明はこちら

会社名義のみならず、上は大崎洋会長から、全役員、全社員、全所属芸人からプロゲーマーまで6,000人の連名という仰々しさが、今回の不祥事の衝撃の大きさを物語っている。

その危機感の由来は、吉本興業の中でもトップクラスの人気と収入を誇る宮迫博之氏までかかわっていたという事実にあるのだろう。

はっきり言えば、無名のお笑い芸人が何人”闇営業”にかかわっていても、当事者を契約解除すれば企業そのものにそれほどの痛手はない。

テレビやラジオやネットメディアに、借りを作ることもない。

ところが、宮迫氏や田村亮氏のクラスまでが、いまだに闇営業に参加していたとすれば話は別だ。

彼らには、その人気に見合った処遇、有り体に言えばギャラの配分比率などで十分に優遇してきたと考えていたからだ。

彼らが、わずか数十万円のお金に目が眩んで、長年にわたって自身が積み上げてきた芸人としてのキャリアを危険に晒すとは思いもしなかっただろう。

宮迫氏と新人時代から親交が深い、ナインティナインの岡村隆史氏が、27日夜のニッポン放送”ナインティナイン岡村隆史のオールナイトニッポン”で語っていることがそのことをよく表している。

宮迫や亮はそういうとこ行かんでもええというか、仕事もちゃんとあるのに行って、ウソもついてしまった
一緒に頑張ってきた人たちがこういう場所に行ってしまったっていう…なんでやねん、という思い
何人かとはお話したが(宮迫には)なんて声をかけていいかわからない
宮迫さんなんて、だいぶ泥水すすって、遠回りして、今の位置まで来た人。
そんな人がこんなところに行かなくても全然よかったのに…ほんまに腹立つわ!
相方がこうなったら(蛍原が)かわいそうやんか

宮迫氏の闇営業参加事件は、彼が出演しているテレビ局やラジオ局、ネットメディアにも大きな衝撃を与えている。

宮迫氏クラスまで、反社会的勢力とのかかわりが日常的に行なわれているとすると、吉本興業のタレント全員にそういうリスクがあると考えざるを得ないからだ。

今後新たな番組や、企画のキャスティングにおいて、そういう危惧がメディアに生じれば、吉本所属タレントを起用することは控えた方が安心だとなりかねない。

これはボディブロウのように吉本興業にダメージを与えることになる。

吉本興業が、今回の問題の対処に必死となる所以である。

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戦後の吉本興業の機を見るに敏な経営方針の転換とその隆盛

その起源を明治時代にまで遡ることができる吉本興業。

その始祖は、NHKの朝ドラ”わろてんか”(葵わかな主演)のモデルになった吉本せい・吉兵衛(通称:泰三)夫妻である。

1923年(大正13年)に泰三が急逝し、経営の実権はせいのふたりの実弟、林正之助と林広高に移っていく。

吉本家と林家は、現在でも吉本興業の創業家一族として一定の影響力を保持している。

両家の資産管理会社”大成土地”は、吉本グループの持ち株会社”吉本興業ホールディングス”の8%の株式を所有する大株主として君臨しているのである。

大正から昭和の戦前時代に、エンターテインメント界を席巻した吉本興業は、戦中戦後の苦境を経て、1943年に新生吉本興業株式会社として再生し、当時の大阪証券取引所に株式上場を果たす。

この時の経営の柱は当時庶民の娯楽の王様であった映画産業であった。

大映映画と組んで”大島情話”(坂東好太郎主演・監督)を皮切りに、次々にヒット作を世に出し、自社で所有する寄席や劇場も、その多くが映画館に切り替えられたのである。

当時の演芸(お笑い)界の実権を握っていたのは、吉本の永遠のライバル松竹である。

戦後いち早く演芸を再開した松竹は、落語や漫才の主力芸人の多くを囲い込み、当時の演芸界に君臨した。

戦後の映画界や興行主には、戦前から引き続いて反社会的勢力に属する者も多く、吉本の株主の多くが彼らと親密な関係にあった。

彼らの力を利用しながら戦後の吉本興業は大きくなっていったのである。

昭和30年代になって、テレビ放送が始まると、これにいち早く着目したのが吉本せいの実弟林正之助である。

うめだ花月開場と同時にテレビ放送を開始した毎日放送と提携し、上演舞台を中継させることで、瞬く間にお茶の間の人気を博すのである。

大村崑、芦屋小雁といった東宝系のコメディアンや白木みのる、花紀京、岡八郎、財津一郎といった面々が新たなスターとして御茶の間から誕生した。

昭和40年代になって、落語や漫才でも吉本所属の若手芸人が育ち始め、メディアと連動する形で若者の人気を得ていく。

当時バリバリの若手であった笑福亭仁鶴、桂三枝(現桂文枝)らが世に出、横山やすし・西川きよし、コメディNo.1らの若手漫才師も爆発的な人気を博すようになるのである。

かつて隆盛を誇った松竹は、所属タレントの高齢化が進み、世代交代に失敗して演芸界の覇権を吉本興業に譲り渡すことになってしまう。

1980年に起こった空前の漫才ブームで、ザ・ぼんち、島田紳助・松本竜介、明石家さんまらの全国区の若手人気芸人が続々と生れていく。

その系譜は、ダウンタウン、千原兄弟、今田耕司、東野幸治らに引き継がれ、吉本グループは傘下に6,000人のタレントを抱える巨大エンターテインメント企業になった。

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経営権争いに揺れ続けた株式上場時代の60年間からTOBを経て非上場会社へ!

吉本せいは、実弟の林正之助と広高を吉本に招き入れ、経営の中枢にすえるのだが、せいの夫吉兵衛が急逝するに及んで、正之助が経営の実権を握るようになる。

1948年(昭和23年)、吉本せいは吉本興業の社長から会長に退き、林正之助が社長に就任した。

この頃せいは、専務を務める正之助に任せている吉本興業の経営を、将来は溺愛する次男(長男・泰之助は2歳で病死)の吉本穎右に継がせる構想を持っていたが、穎右はせいの反対を押し切って歌手の笠置シヅ子と結ばれ、1女を儲けた後に1947年(昭和22年)に24歳の若さで病死(肺結核)してしまう。

跡取りに先立たれたせいは正之助に社長の座を譲った後、穎右の後を追うように1950年(昭和25年)に60歳で世を去った。

穎右とせいが相次いで世を去ったことで、吉本興業の実権は名実共に創業家の吉本家から傍系である林正之助社長の林家に移ることになる。

その後は正之助の病気などで、弟広高が社長に就任するも、広高が東京から連れてきたスタッフと生え抜きの大阪スタッフとの間に確執が生まれてしまう。

吉本興業の中興の祖と言われる中邨英雄も、演芸部門を軽視し、経営の多角化を目指す広高の方針に異を唱えて、この時吉本興業を一時離れている。

弘高は後に脳梗塞で倒れ、1970年(昭和45年)再び正之助が社長に復帰した。

正之助復帰に伴い、正之助に近い中邨秀雄が吉本に復帰する一方で、弘高・東京吉本系の幹部社員の多くは失脚し、当時幹部の顔ぶれががらりと変わってしまう。

1973年(昭和48年)に正之助は社長から会長に退き、後任に橋本鐵彦が就任する。

吉本興業においては創業者一族以外からの初めての社長就任であった。

その後一度は正之助が社長復帰を果たすが、1991年(平成3年)には正之助の死に伴い中邨秀雄が社長に就任している。

1999年(平成11年)には正之助の娘婿の林裕章(せいの愛娘林マサの娘婿)が社長を継ぐなど、この時期社長のイスは創業者一族と外部の間で揺れ動く。

最終的に2005年(平成17年)の林裕章の突然の死を受けて、吉野伊佐男が社長を継いで以来、外部からの登用が続いており、今日に至っている。

結局吉本は、当初は経営陣の中枢を創業者一族で固める同族企業として出発したが、その中で、吉本せいと林正之助間で姉弟間の、さらには正之助と弘高間で兄弟間の主導権争いを繰り広げてきた。

前者には「吉本家」対「林家」、後者には「大阪」対「東京」という対立軸も加わり、様相を一層複雑なものにした。

いずれの主導権争いでも最終的に勝利したのは正之助であり、その過程で吉本興業の経営の実権は吉本家から林家、さらには同家の正之助直系に移っていく。

その後独自路線を強める吉野伊佐男社長以下現経営陣に対して、それを創業者一族離れと見る大株主の林家が批判を強め、新たな確執が生まれてしまう。

古い株主の一部が、これらの確執の中で反社会的勢力とかかわり、その力を頼んで自陣営を有利に導こうとした事案もこの時期には発生している。

正之助の死後経営の実権は、吉野社長や大崎洋らに移ったのだが、正之助の愛娘林マサ(林裕章の妻)は、これに猛反発し林家に経営権を取り戻そうと、元暴力団幹部であるリゾート開発会社会長に急接近してしまう。

この会長を林家に引き合わせたのは、中田カウスだとされている。

中田カウスは、林裕章が社長当時に、裕章の女性トラブルを暴力団の名前を使って収めたことで、林の弱みを握り、林はそれに報いる形でカウスを吉本興業の最高顧問に任じている。

しかしリゾート開発会社会長の腹心の幹部は、

生前の裕章さんの女性トラブルを、カウスが暴力団の名前を使って解決したそうだが、これ以後裕章さんはカウスに頭が上がらなくなり、カウスは『特別顧問』の肩書まで手に入れた。だが、裕章さんの死後すぐに豹変(ひょうへん)し、(現経営陣にすり寄り)創業家をないがしろにするようになった

と語り、そのことが林マサと現経営陣との対立の引き金となったというのである。

林マサが、反社会的勢力と組んでまで、吉野社長らとの全面戦争に及び、最期まで退かなかった真の理由は定かではないが、その答えは、正之助が生前公言していたというこの言葉にあるとの指摘もある。

社員は虫けら、芸人は乞食(こじき)」

正之助のDNAを受け継ぐマサにとって、社員(吉野伊佐男社長ら)が吉本を牛耳り、芸人(中田カウスら)に自身のプライドを傷つけられたことがどうしても許せなかった。

だからこそ、裏社会と接触を図ってでも、彼らを追い出そうとしたのだという解説である。

この事の真偽はわからないが、日本のエンターテインメントの一大勢力となった吉本興業が経営の実権を巡って争いを続ける状況に危機感を抱いたメディアや銀行団が、吉本興業の非上場化を前提に、TOBによる株式取得を目指すこととなるのである。

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吉本興業ホールディングスの非上場化と反社会的勢力との訣別

平成21年9月11日、東京、大阪両証券取引所1部上場の吉本興業の株式の非上場化を目指して、元ソニー会長、出井(いでい)伸之が代表を務める投資会社クオンタム・エンターテイメントが株式公開買い付け(TOB)うを実施することが発表された。

クオンタムは、吉本の友好的買収を目的に設立され、在京キー局や広告代理店、ソフトバンクなどが190億円を出資、銀行からの融資などにより最大350億円を調達し、全株買い付けの必要資金に充てる計画であった。

株式上場からちょうど60年という節目の年に、上場廃止を前提にしたTOBに賛同した狙いについて、吉本興業取締役、中多広志はこう語っている。

上場している限り、株主に迷惑がかからないように振る舞うのが最も大事なことになり、大胆なチャレンジができない。もし上場を維持していれば、ハゲタカファンドに買いたたかれて、ボロボロになっていたと思う。

「笑い」というソフトを売る吉本にとって、市場から資金調達するメリットはほとんどない。むしろ、経営側の視点からみれば、上場を維持するデメリットの方が大きかったのだ。

株式の非上場化という重大な決断に、現経営陣と対立が続く創業家の排除という思惑はなかったのかとの問いにはこう答えている。

創業家排除のためだけに、天下の出井さんが動くと思いますか? でも、TOBを進めた結果、一部の株主の影響から逃れることができたのは確かです。

土壇場で三菱東京UFJ銀行が190億の融資から撤退したことで、一時は危機を迎えたものの、結果として出井らによるTOBは、平成21年10月、吉本の自社保有分を除く発行済み株式の約9割の応募で成立、上場廃止が決まった。

2008年度決算で売上高488億円のビッグビジネスであった吉本興業ホールディングスは、ついに非上場会社となったのである。

TOB開始直前でのUFJの撤退は裏切り行為に等しかったが、関係者は「撤退を決めた理由に、お家騒動と暴力団のつながりがあったことを指摘している。

それは林マサの背後にいた元暴力団幹部のリゾート開発会社会長と大阪市の財団法人「飛鳥会」をめぐる関係にあった。

証言によれば、この会長は平成15年までの6年間、同和団体である飛鳥会の理事を務めており、理事長の小西邦彦とも近い関係にあったとされる。

同和団体の「首領」として君臨した小西は、2006年業務上横領容疑で大阪府警に逮捕され、翌年病死したが、飛鳥会事件に絡む不正融資をめぐり、2007年にUFJは金融庁の業務停止命令処分を受けている。

TOBの開始直前になって、マサと元暴力団幹部のリゾート開発会社会長、小西邦彦との密接な関係が、UFJ社内で問題になり、融資の中止が決められたようだ。

創業一族である林家に公然と反旗を翻した吉野や大崎らが、上場廃止前に掲げたフレーズは「吉本の近代化」である。

それは、創業以来脈々と続く「興行とヤクザ」の関係に、ピリオドを打つという意思表示だったといえるだろう。

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吉本興業のコンプライアンス対策への取り組みとその効果

吉本は2009年に株式を非上場にした時から反社会勢力との断絶などコンプライアンスの向上に積極的に取り組んできた。

さらに2011年、島田紳助氏が暴力団関係者との交際発覚で芸能界を引退したことで取り組みを強化。芸人やスタッフに対して年2回の社内研修など定期的にコンプライアンス意識を徹底させる試みを行ってきた。

仕事が忙しい芸人らには楽屋などで個別で指導もしていた。

それでも今回のような”闇営業”での反社会的勢力と芸人たちのかかわりはなくならなかった。

今回の事件発覚を受けて、吉本興業は、東京を中心に活動する約1,000人の若手芸人を対象に、6月27日から30日までの間の4日間で合計8回の緊急コンプライアンス研修を実施すると発表した。

警察OB、弁護士、コンプライアンス担当役員、マネジメント担当役員が講師を務め、事件の再発防止に努めるというものだ。

人気芸人には、楽屋まで出張して研修を行うとしている。

しかしこれらの対策に取り立てて新味はなく、本当に効果があるのか疑わしい。

それは、こういう事案(闇営業)がなくならないことについての真の原因と向き合っていないからである。

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なぜ吉本の闇営業はなくならないのか

吉本興業は傘下に6,000人のタレントを擁するお笑い界のモンスター企業である。

非上場化直前の2008年決算では、年間売り上げ488億円であった。

ところがその中身は、決して健全とは言えない。

株式上場廃止後に非公開となった2009年以降でも、年間30億円程度の赤字に苦しみ、有利子負債などの返済を行うのに、新たな借り入れをしなければならない自転車操業状態が続いていた。

これが上場企業なら、株主から問題提起され、経営陣は総退陣を迫られる可能性まである事態である。

しかし、筆頭株主であるフジメディアホールディングスを始め、NTV、TBS、テレビ朝日、テレビ東京の
在京5局と在阪5局、それに電通を合わせると過半数である50%超となる株主構成では、間違っても株主代表訴訟を起こされる心配はない。

吉本が巨額の赤字を計上し続けながら、沖縄国際映画祭をやめようとしない理由がここにある。

吉本傘下の6,000人の内、吉本グループのタレントマネジメント部門の吉本クリエイティブエージェンシーと専属契約を結んでいる芸人はわずか20人だと言われている。

20人以外の5,800人は個人事業主として、吉本と(口頭での)請負契約を交わしているにすぎない。

だから吉本があっせんする仕事でのギャラの配分は吉本サイドの裁量に委ねられているのだ。

巷間言われている吉本と芸人のギャラの配分比率は、9:1とか8:2である。

むろん9割、8割を取るのは吉本側だ。

これは芸人にとって極めて不利な配分である。

2014年11月の日本テレビ”ナカイの窓”で、ピースの綾部祐二が
”我々吉本は(ギャラの配分が)1:9ですから、10万円の仕事したら、1万円が僕らで、9万円が会社なんですよ。源泉徴収でさらに差し引かれるため、コンビで仕事をこなした場合、1人当たりわずか4,500円しか手元に残らない。”
と暴露して他の出演者を驚愕させている。

2013年に別の番組でも、ママタレント千秋は元夫であるココリコの遠藤章造の給料明細を見て、「吉本って本当にギャラを9割取るんだなと思った」といい、これに、品川庄司の庄司智春を夫に持つ藤本美貴も「本当にそう」と同調していた。

ちなみに
太田プロ   タレント6;事務所4
オフィス北野 タレント7:事務所3
人力舎    タレント6;事務所4
と言われている。

さらに吉本の劇場出演の若手のギャラは、1日数百円である。

交通費で赤字になってしまう額である。

だから吉本の若手芸人は、アルバイトをするか、親からの仕送りに頼るか、先輩芸人に面倒を見てもらうかいずれかの方法で生活をしているのだ。

吉本では師匠制度が禁止されているので、落語家のように師匠の内弟子になって、師匠の身の回りを世話をしながら、生活の面倒を見てもらうこともできない。

結婚している若手芸人は、妻が働き手となって一家の生活を支えているケースが多い。

この若手芸人搾取のビジネスモデルの背景に、林正之助の口癖であった”社員は虫けら、芸人は乞食(こじき)”という思想が経営の根底にあり、それが現代の吉本興業に連綿と続いているとするならば、吉本興業は近代化の仮面をかぶった過去の亡霊である。

それでもお笑い芸人としての成功を夢見て吉本興業入りを希望する若者が後を絶たないのは、吉本ではほかの事務所よりはるかに多くのチャンスが与えられるからである。

そのチャンスをつかみとり、未来のブレークを夢見て、今の厳しい生活に耐えているのだ。

そんな吉本の若手芸人にとって、事務所を介さない直の営業である”取っ払い”はとても魅力的なものなのである。

いやなくてはならないものといってもいいだろう。

これがなければ生活が成り立たないという芸人はたくさんいるのだ。

吉本の現場スタッフもそのことを十分にわかっているので、直の営業(取っ払い)は事実上黙認されていたのである。

ただこの”取っ払い”の中にも、筋の良い仕事と筋の悪い仕事がある。

筋の良い仕事とは、発注元の身分が明らかで、関係者に反社会的勢力の影もない、結婚式や企業のパーティなどの余興である。

これらの仕事は、ギャラが10万であれば、その金額がまるまる芸人の懐に入ることになる。

月に何本かあれば生活は十分に成り立つ。

ただそれらの仕事の中には、発注元に怪しげな人物や組織の影がちらつくものもあり、それらがいつしか”闇営業”と呼ばれるようになっていく。

そして”闇営業”は”取っ払い”全般を指す言葉として流通するようになっていったのである。

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いま吉本に必要なのは、若手芸人の再教育ではなく、若手芸人を搾取する今のビジネスモデルの見直しである

取っ払いは、ほかの事務所でも行われている商慣習なのだが、反社会的勢力とのかかわりが発覚するのは圧倒的に吉本所属芸人が多い。

吉本芸人の絶対数が多いことももちろんだが、異常ともいえる吉本のギャラ配分の低さが関係していることは自明である。

たとえ筋の悪い”取っ払い”であっても手を出さざるを得ない状況に置かれているのだ。

衣食足りて初めて、人としての倫理に考えが及ぶ。

それが足りていない芸人に、いくらコンプライアンスを説いても虚しいだけである。

今回の2,000字を超える決意表明にも無力感が漂っている。

吉本興業は、自身のビジネスモデルにもう一度真摯に向き合って、企業としての社会的意義について見つめ直して欲しいと思う。

そうでなければ若者たちが救われない。

エンターテインメントの巨人”吉本興業”に求められているのは、芸人の再教育ではなく、所属芸人を搾取し続ける前近代的なビジネスモデルの見直しである。

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