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白石麻衣物語 その1:いじめで不登校だった田舎の美少女が、乃木坂46のメンバーになってアイドル界の頂点に立てた理由~

アイドル

白石麻衣はアイドル界の頂点に立つ存在である。

2017年2月にリリースされた2ndソロ写真集”パスポート”は3年たった今でも売れ続け、27回の重版を重ね累計発行部数38万部という驚異の数字を叩き出している。

そんな白石麻衣が、2020年の年が明けてすぐの1月6日、乃木坂46からの卒業を発表した。

このブログでは、”アイドル界の女神”白石麻衣の軌跡を”白石麻衣物語”として記録と記憶に残したいと思う。

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第1章 たった一人の卒業式~いじめで不登校になった中学生時代~

群馬県沼田市出身、1992年8月20日 生まれの27歳。(2020年1月現在)

身長:162cm 血液型:A型
スリーサイズは81-59-84とされている。

優しい両親と3歳上の姉との4人家族。
麻衣自身は父親に似ていて、みんな色白だという。

白石の生家は群馬県の中でもかなりの田舎にあり、通っていた沼田市立沼田北小学校までは徒歩で30分ほどかかる。
幼稚園の頃の夢はケーキ屋さんになることだったが、小学6年生の時、ファッションに対する興味が芽生え、スタイリストやモデルを夢見るようになった。

白石麻衣は普段ほとんど故郷や家族について語らない。
それは少女のころの辛い体験に関係しているのかもしれない。

小さい頃は真っ黒に日焼けして、野山を駆け回る元気少女で、テレビで音楽番組とお笑い番組を見るのが大好きな明るい性格であった。

運藤神経が良くて、中でも走るのは大得意。小学校では、マラソン大会で6位になっているし、50mは7秒台で走れた。
小学校の卒業文集の「将来の夢」の欄には「花屋さん」と書いている。

中学校ではファッション雑誌を通して好きになった音楽をやろうと思い吹奏楽部へ入部、トランペットの担当になったが、あまり前に出る性格ではなかったので、トランペットが合わずにすぐやめてしまった。
その後ソフトボール部に入ってすぐに頭角を現すことになる。

2年ではレギュラーに定着、セカンドで2番を任されていた。
県大会ではベスト4まで進み、ベスト9にも選ばれている。

一方で、中学校に入ってすぐに軽いいじめを受けるようになる。
上履きを隠されたり、上履きの中に画びょう入れられたり、ノートに落書きをされたりしたこともあった。

本人はあまり語らないが、いじめられていたクラスメートを庇ったことや、そのころから目立つ美少女であることを妬まれていたことなどが重なっていじめの標的にされてしまったようだ。

沼田市立沼田中学校2年の冬休みのころ、グラウンドの使用などを巡って対立していたテニス部との確執が激しくなり、白石は、テニス部の攻撃の標的になってしまった。

テニス部員たちから呼び出され、”挨拶がない”とか、”生意気だ”とか言われ、ののしられたりもした。

それが重なってだんだん学校に行くのが辛くなっていき、中学3年の夏休みに入るころにはとうとう教室に入ることができなくなってしまった。

母に心配をさせまいと、学校には毎日通ったが、教室とは別の部屋で本を読んだり、自習をして一日を過ごすようになった。

中学3年の後半の期末テストの初日の朝、とうとう自分の部屋から出られなくなった。

ついに不登校になってしまったのだ。

先生の配慮で、教室に入れなくて別の部屋で過ごした日々も出席扱いにしてもらえたので、なんとか中学校は卒業することができた。

ただ、みんなと同じ卒業式にはどうしても出られず、みんなが帰った後たった一人で卒業証書をもらった。

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第2章 母との二人暮らしになった高校時代~明るい性格を取り戻すことができた~

白石には地元群馬の高校に進むという選択肢はなかった。
家族と相談して、母親と麻衣の2人で埼玉県に引っ越すことが決まった。

正直、東京に行きたくて仕方ありませんでした。それまでの生活も嫌いだったし、ちっちゃい頃から姉が買っていたファッション雑誌の中に写っている東京に憧れていたんです。お洋服屋さんもいっぱいあるし、ショッピングする場所もある。原宿にも行ってみたかった。雑誌に書かれてる“楽しい生活”は、地元ではできると思えませんでした。」(乃木坂46物語より)

父親と姉には寂しい想いをさせてしまうことになり、白石はこのことについてずっと負い目を感じていて、同時に深く感謝もしている。

父親はとても優しい人で、毎日のように埼玉にいる母と麻衣に電話をかけてくれた。

子供が大好きだったので、2008年4月に小松原女子高等学校(現在の浦和麗明高等学校)普通科保育進学コースに入学し、将来は保育士になろうと考えていた。

高校時代は、中学校時代の辛い経験が嘘のようで、キラキラした毎日が過ごせるようになり、白石は生来の明るさを取り戻すことができた。

友人とプリクラを撮ったり、そのころ大好きだったジャニーズの安田章大の追っかけをしたり、東京に買い物に出かけて最新のファッションを見ることにも興奮した。

東京では何人ものスカウトマンに声をかけられ、もらった名刺を重ねると数㎝にもなったが、芸能界に入るという気持ちにはならなかった。

白石は普通の高校生活を謳歌していた。

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第3章 専門学校での体験入学で気づいた音楽への想い~担任に強く勧められた乃木坂46の1期生オーディション~

高校3年の春の進路説明会で音楽の専門学校があることを知り興味を持つようになる。

夏休みに、東京スクールオブミュージック&ダンス専門学校に体験入学したことで、白石の運命は大きくかわることになる。

元々音楽が好きで、歌うことが大好きだった白石の夢は、この体験で保育士から歌手へと大きく変わったのである。

2011年4月に東京スクールオブミュージック&ダンス専門学校へ入学する。

白石のビジュアルに驚愕した担任から、その年の夏の乃木坂46の1期生オーディションを受けてみたらどうかと勧められる。

アイドルにはほとんど興味がなかったが、歌うことを仕事にする可能性が開けると思って応募を決断した。

オーディションにはTシャツ・ショートパンツ姿で参加するものだと思っていたのでラフな格好で行ったら、他のみんなはフリフリのワンピース姿だったので、”私、終わった。”と思った。

みんなが必死で特技を披露する中、自分には何もできることがなくて、軽い自己紹介をしただけだった。
審査の人が”変顔をしてみて”と言ったので、50%くらいの変顔をして最終審査を終えた。
とても合格するとは思えなかったが、はからずも合格してしまった。

合格発表後、一番にお母さんに電話してその時の気持ちをぶつけたな~
その時は嬉しい気持ちより不安の方が大きくて先のことが心配で仕方がなか ったです
だけど、お母さんが電話で言ってくれた言葉、おめでとう。辛いこととかあると思うけど、お母さんはいつでも麻衣の味方だよ。 その言葉が今でも私を強くしています。
私の19歳の誕生日プレゼントは乃木坂46に合格したこと。 今までで一番最高なプレゼントになりました(o^^o)”(2012年8月20日公式ブログより)

乃木坂に合格するまでは毎日のように電話をくれていた父親が、合格後は気を遣ってほとんど電話をしてこなくなったのが寂しかったが、20歳の誕生日には白石の方から電話をして、久しぶりに声が聴けて嬉しかったとブログに綴っている。

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望んでいた未来とは違ったアイドル生活に戸惑う毎日が始まった

乃木坂46の1期生オーディションでは西野カナの「このままで」を歌唱した。

暫定選抜メンバーに選ばれ、立ち位置は中列であった。

まったくダンス経験がなかったため、乃木坂46の連日朝晩続くダンス練習に苦闘し、望んでいた”歌手”とは異なるものになってしまいそうで、想像していたのとは違うところへ来てしまったという想いも強かった。

2ndシングルの頃が一番苦しくて、今日こそ”辞めます”と言おうと考えていた。

でもこれまで応援してくれた両親との約束を思い出し、同期のメンバーだって苦しいと思いながらも頑張って続けているんだと気づき、もう少しアイドルを続けてみようと思い直した。

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第4章 いつからか白石の口癖になった”どうしたらいいですか?”は高いプロ意識の現われ

乃木坂46の1期生33名の中で白石麻衣は3番目の年長メンバーであった。

初期の乃木坂46の顔は言わずと知れたセンター生駒里奈であったが、ファッション誌のモデルの仕事や、CM・ドラマ・バラエティ番組の出演などは乃木坂46では白石が最初で、白石が切り拓いていった道である。

ファッション誌の撮影現場には、いつもおしゃれな洋菓子やおいしそうなパンが差し入れられていたので、白石はスタッフに許可をもらって、余った差し入れを乃木坂のレッスンルームにたくさん持ち帰った。

食べ盛りで、お金もなかったメンバーたちは、まいやんからのおみやげをとても楽しみにしていた。

乃木坂46が売れる前の1期生たちはみんなで支え合って過ごす、まさに戦友であった。

どうしたらいいですか?が口癖になった理由

いつからか白石の口癖が”どうしたらいいですか?”になっていた。

これは決して受け身の言葉ではない。

新しいジャンルの仕事場、慣れない現場でスタッフの要求に精一杯応えたいと思って白石が発した言葉が”どうしたらいいですか?”なのである。

白石と仕事をしたスタッフが、”白石麻衣はプロ意識が高い”と言うのは、白石が仕事に向き合う姿勢がこのように真摯でストイックであるからである。

アイドルであった8年間、スキャンダルとは無縁であったことも高いプロ意識の現われだ。

白石は本当は前に出たがる性格ではない。

家族の中では妹キャラ全開の甘えん坊で、わがままを言っているという。

そんな白石が、乃木坂46では後輩メンバーをいつも気にかけている。

人前に出ることが苦手だった白石が、今や大勢のファンの前で華麗に歌って踊り、観客を魅了している。

”自分を変えることは決して易しくはないが、家族やメンバー、スタッフが支えてくれたおかげで自分は変わることができた。”(乃木坂46物語)

白石麻衣はそんな風に考えている。

そして白石麻衣は誰よりも乃木坂46を愛し、メンバーを愛している。

その想いこそが、まさに白石麻衣が27歳までアイドルを続けている原動力なのだ。

2020年1月6日にグループからの卒業を発表した白石麻衣。

アイドルの頂点を極めた彼女は今後どんな道を歩むのかとても楽しみである。

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コメント

  1. ねもりく より:

    はじめまして。いつも読み応えのある素晴らしい記事をありがとうございます。非常に読みやすく、助かっています。
    本日2月20日、乃木坂46のメンバーだった橋本奈々未が卒業してから3年が経ちましたが、彼女はすでに一般人でありながら、Twitterにトレンド入りし、その存在は本記事の白石麻衣と唯一並び立つことのできた存在(全シングル福神は2人のみ)と称する人も少なくないように思います。また、当時行われた卒業ライブは、乃木坂46のどのライブとも違う独特の雰囲気を放っています。そこでもしよろしければ、橋本奈々未という存在はなんなのかと言う記事を書いていただきたいです。自分の中で何となくのイメージはあるものの、言葉にするとなるとすごく難しく、主さんの考えも知りたいです。

    • susumutaira より:

      ねもりく様
      丁寧なコメントありがとうございます。
      とても励みになります。
      橋本奈々未さんは、アイドルとしても人間としても、とても魅力的で興味深い存在だと思います。
      すぐに書けるかどうかお約束はできませんが、もう少し取材して書きたいと思います。
      たいらすすむ