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デヴィ夫人、貧しかった美少女がたった一人でクラブホステスから大統領夫人に成り上がった生き様~何ものも恐れず、泣き言を言わず、好奇心を失わず、挑戦し続ける生き方が私たちに教えてくれるもの~

タレント

デヴィ夫人の数奇な生立ちと貧しかった少女時代、18歳で高級クラブのNo.1ホステスに!波乱の生涯が始まった

80歳を超えてなお元気に活動を続けているデヴィ夫人。

赤阪の高級クラブのNo.1ホステスの時に見初められ、19歳でインドネシアに渡り、22歳で”インドネシアの建国の父”と呼ばれた初代大統領スカルノの第3夫人となった。

スカルノ失脚後フランスに亡命、その後も波乱万丈の人生を歩み、60代を迎えた2000年ころから日本に活動拠点を戻し、芸能界で活動を始めた。

何も恐れず、何者にも忖度しない彼女の発言は、様々な物議を醸し、問題を起こしながらも、ある種の痛快さを私たちに与えて、今なお芸能界で余人に代えがたいポジションを得ている。

”100歳まで生きる”ことを広言しているデヴィ夫人だが、現在81歳を迎え、鉄人の身に何が起きてもおかしくない年齢である。

そこで彼女が元気なうちに、その生き様を私たちの記憶と記録に残すためにここに記し、さらにそこから私たちは何を学ぶべきかを考えてみたい。

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父は再婚、母は3度目の結婚、共に45歳で結婚した両親から生まれた美少女根本七保子が後のデヴィ夫人

通称”デヴィ夫人”、本名Ratna Sari Dewi Sukarno(ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ)、かつての日本名”根本七保子”。

スカルノ大統領との結婚に際し、22歳で日本国籍を離れてインドネシア国籍となった。

デヴィ夫人は、1940年2月6日東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)に生まれた。(2021年7月現在81歳)

父・”根本兵七”は大工の棟梁で、母・”まさ”は近所でも評判の美人であった。


七保子の名前の由来は、根本家の7番目の子だったから。

父と前妻のはる(故人)との間には、すでに6人の子があったのだ。

その翌年(1941年)には弟八曾男(やそお)が生まれている。

七保子の生母の笠原(旧姓)まさは千葉県出身、近所でも評判の美少女だったが、実家の柿の木から落ちて大けがをして、以後右足が不自由になってしまった。

19歳で結婚、すぐに女の子を出産するも間もなく亡くなってしまい離婚、その後再婚して男の子を出産したが、この子も2カ月で亡くなり再び離婚となった。

その後まさは、裁縫で生計を立て自活していたが、しだいに仕事が少なくなったため、仕事を求めて上京、東京市麻布区(現在の港区麻布)でチャイナドレスの縫製の仕事に就くこととなる。

職場の近くに家を探したが、訳アリの独身女性に部屋を貸してくれる家主はなかなか見つからなかった。

父の根本平七は、茨城県(現在のひたちなか市平磯町)の出身、実家は海産物商だったが尋常小学校を卒業して船大工の道へ進む。

大正10年(1921年)30歳で地元の”はる”と結婚して、6人の子(3男3女)をもうける。

大正12年の関東大震災で平磯も大打撃を受け、漁師を廃業する者が続出、船大工の仕事がなくなってしまったため上京、麻布の陸軍歩兵第三連隊の兵舎の再建に大工として雇われることとなった。

大工の給料だけでは妻と6人の子を養えず、昭和7年(1932年)西麻布に2階建てに居を構えた折、その2階を賃貸物件として貸出し家賃収入を得ることを目論む。

この2階の部屋は、その立地の良さから、空き室になるとすぐに次の借り手が決まる人気物件となった。

たまたま空き部屋となった時に、笠原まさがその部屋を借りたいと訪れる。

その境遇を聞いて不憫に思った平七はまさに部屋を貸すことにしたのである。

まさが部屋を借りて半年後、平七の妻はるが5人の子(一人はすでに死亡)を残して病死してしまう。

根本家の2階を借りていた笠原まさは、根本家の家事や育児を手伝う様になった。

3年後親戚のすすめで、兵七とまさは、昭和15年(1940年)共に45歳で結婚、すぐに七保子が生まれ、翌年八曾男が生まれた。

その後太平洋戦争が勃発、母まさは幼かった七保子と八曾男をつれて親戚のいる福島県浪江町に疎開、空襲を生き延び、終戦直後に奇跡的に被害を免れた麻布の住まいに戻ることとなった。

この時七保子は5歳、近所の男の子たちを引き連れて遊び廻るガキ大将で、青山墓地が格好の遊び場だった。

戦後の復興で父の大工の仕事はたくさんあり、前妻の子らも独立、根本家の暮らしもやっと楽になると思っていた矢先、根本家に不幸が訪れる。

生来の酒好きであった父兵七が、地元の消防団の飲み会で”ばくだん”と呼ばれたメチルアルコール入りの酒を飲んでしまい視力が悪化、大工の仕事が出来なくなってしまったのである。

母まさは、着物を縫ったり、近所の薪割りを手伝ったり、マッチのラベル貼りなどの内職をして生活を支えたが、近所や親せきから借金をしなければ生活が立ち行かない程の貧しい暮らしとなってしまった。

子供のころから聡明だった七保子は、母の負担を少しで減らすため、修学旅行や林間学校の行事には参加せず、つぎはぎの当たった洋服を着、左右違う靴下を履いたりしていたが、生来の明るさと負けず嫌いで、努めて明るく振舞い、その美少女ぶりも相まって、みんなの人気者であり続けた。

小学生の頃は絵を描くことが大好きで、小学校の学芸会となると紙芝居の仕事は一手に引き受けた。

美のセンスはその頃から突出していたと後に同級生が語っている。

家の裏に、かつての父の仕事場近衛第三連隊があって、戦後はアメリカ兵の駐屯所になっていた。

車線の両側にはMPが立って、クリスマスになると黄色いジープでサンタクロースの格好をした米兵が来て、子供たちにたくさんのチョコやガムを投げ与えた。

その頃から外国や英語への憧れが芽生え、満天の星を見ながら、私もいつか‥と思い、七保子は英語を独学で学び始める。

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1955年3月、港区立高陵中学校を卒業し東京都立三田高等学校定時制課程に進学すると同時に、昼間の職を求めて、150倍(450人の応募で合格はわずか3人)の難関を突破して大手保険会社の1つである千代田生命保険(2012年にジブラルタ生命保険に吸収合併された)に入社を果たす。

初任給は月額6,600円で、中卒としては破格であった。
(当時の初任給の相場は、中卒の女工で4,000円・高卒で8,000円・大卒は10.000円ほど)

家計を助けるため、保険会社のOLだけでなく、昼休みは実家近くの喫茶店で働き、土日は銀座のコーヒーショップ”コンパル”でアルバイトをして、夜は三田高校の定時制に通う厳しい生活が始まった。

▼右が七保子(現デヴィ夫人)

小さい頃から絵を描くことが得意だった七保子は、中学卒業後に女流洋画家の岡田節子(後に女子美術大学名誉教授)に師事、将来は画家になることを夢見ていたが、展覧会に師匠の岡田が男性の名前で出品しているのを知って衝撃を受ける。

当時日本では女流画家の作品には値が付かないことがその理由だと知り、”女流画家になっても母と弟を養うことはできないんだ”と気づく。

ある日、母に連れられて新橋演舞場で舞台を観て、”女優に学歴は必要ない、画家はやめて女優になろう。”と思い立つ。

一流の女優になれば、大金を稼ぐことができ、母と弟に楽な暮らしをさせることができると考えたのだ。

美少女だった七保子は、すぐに東芸プロダクションに入ることができ、演技、歌、ダンスを習い始めることとなった。

お花は草月流、日舞は花柳流、習い事の月謝を払うため、アルバイトとしてエキストラや端役で、映画やテレビドラマなどに出演を始めた。

七保子の夢は自分の手でお金を稼いで、母に楽をさせ、弟の八曾男を大学に通わせることであった。

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父の死を契機にクラブホステスに転身、一躍No.1に

1955年(昭和30年)59歳で父兵七がこの世を去った。

七保子は自分が根本家を支えるのだと決意を新たにする。

国際女優を目指していた七保子は、積極的に外国人と交流するように努めた。

外国人向けのクラブで歌手をしていたフィリピン人歌手チキータの紹介で、アメリカ人の友人ができ、その人物に連れられて、1957年にオープンしたばかりの赤坂の高級社交クラブ”コパカバーナ”に初めて足を踏み入れることとなる。

コパカバーナの客の90%以上は外国人で、日本人の常連客は大映の永田社長や帝国ホテルのオーナーくらいだったという。

高額な料金設定だったとも言われていて、水割り1杯で大卒の初任給が吹っ飛ぶと噂されていた。

そこで働く女性は”VOGUE”から抜け出したように綺麗で、英語ができて、自家用車で通っている者も多くいた。

そこのマダムは”チェリーママ”と呼ばれる豪快な女性だったが、七保子が数回訪れると、”うちを手伝ってくれない”と誘われた。

チェリーママは、エキゾチックで日本人離れした七保子の美貌と頭の回転の早さに惹かれたのだ。

七保子はしばらく考えた後、その誘いを受けることに決める。

一流の女優になるには、かなり時間がかかるだろうし、ここなら英語の練習にもなる。

コパカバーナのギャラは、保険会社のOLとは比べ物にならないほど高額で(収入は10倍以上)、これなら母に楽をさせることができると思ったからだった。

コパカバーナに数多いるホステスの中でも、七保子の美貌は抜きん出ていて、頭の回転の早さが接客に向いていたので、あっという間にNo.1の座についてしまった。

七保子に憧れた他のホステスたちが”七保子さんの顔にして!”と整形外科に列をなしたという伝説が残っている。

コパカバーナで稼いだお金で、弟の八曾男を念願だった早稲田大学に入れることができ、七保子の夢は叶いつつあった。

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根本七保子とスカルノ大統領との仕組まれた出会いの陰でうごめくインドネシアの巨額賠償金ビジネス

 賠償金ビジネスのからくり~その周辺に群がる政商・政治家たち~

日本の無条件降伏で終った太平洋戦争。

その戦後処理の一環として東南アジア各国への補償金の支払いと、それに紐付いていた日本企業の巨額プロジェクト受注は、日本の政財界を巻き込む一大事業であった。

その中でもインドネシアへ支払う補償金は、当時の金額で約800億円と他国と比べて抜きん出ていた。

その事業の鍵を握っていたのがインドネシア建国の父、初代インドネシア大統領スカルノであった。

かつての宗主国オランダとの長期に渡る戦いを、国連や米・英などの後押しもあって勝ち抜いたスカルノ大統領は、国内に強大な権力を築く。

日本の商社は、賠償金ビジネスを有利に展開するため、絶大な権力を持つスカルノ大統領への接近を図ろうとしていた。

インドネシアへの賠償金800億円は、実際には現金で支払われるのではなく、その資金を元手にインドネシア政府が日本の企業から、インドネシアの復興に必要な船舶やトラック、建築物などを日本企業から買い付け、それらがインドネシアに送られる形式であった。

実際には、巨額の賠償金は、日本政府から日本の企業に流れたのである。

インドネシア政府のトップとして巨額の買い付けの最終決定権を持つスカルノ大統領に取り入ることは、日本の企業にとって大きなビジネスと巨額の利益に直結していた。

賠償金ビジネスの買い付けの窓口となった商社からは、スカルノ大統領に巨額の手数料?が支払われ、スカルノに口を利いた日本の政治家にも莫大なキックバックが支払われたと言われている。

この取り引きで、日本の商社は莫大な利益を上げ、巨大企業へ成長していったのである。

スカルノ大統領の弱点は、その並みはずれた”女好き”であった。

それを察知した日本の商社の幹部は、スカルノの接待に励み、女性の好みを詳細に調べ上げた。

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 周防咲子の場合~バスキ夫人の悲劇~

最初にスカルノへの”人身御供?”としてインドネシアに送りこまれたのは”周防咲子(別名金勢さき子)”という女性である。

昭和34年7月10日、インドネシアの内閣改造レセプションに全閣僚が正夫人同伴で出席する中、スカルノ大統領は和服姿の日本人女性を同伴して現われる。

スカルノ大統領には日本人の妻などおらず、スカルノ夫人といえば、第1夫人はメガワティ、第2夫人はハルティニだった。

この日本人女性が昭和9年1月20日生まれの日本人女性周防咲子(別名金勢さき子)である。

咲子は目黒高校を卒業後、松坂屋でウェイトレスを2年勤め、松竹のミス明眸コンテストに入選したほどの美人で、その後は喫茶店で会計係をしていた。

昭和30年夏にすみれモデルグループのファッションモデルとなり、赤坂のナイトクラブに勤めることとなった。

昭和33年2月、京都に旅行中、スカルノ大統領に引き合わされ、スカルノが一目惚れ、咲子は半年後の9月1日に羽田空港を発ち、11月17日にはジャカルタ入りしている。

そうして咲子は、スカルノ大統領からクバヨランバールに家を与えられ、世話係のメイドもつき、将来の大統領夫人と噂され、現地では”バスキ夫人”と呼ばれるようになるのである。

これには木下産商ジャカルタ支店長の豊島中の働きがあり、公には金勢は豊島の家庭教師という名目でインドネシアに滞在していた。

昭和34年6月6日、金勢はスカルノから結婚の申し込みを受ける。

金勢は一旦、日本の世田谷区上野毛の自宅に帰国、再びジャカルタ入りした。

しかし咲子はその後心身に変調を来し、療養中のセントカルロス病院で自殺未遂を図る。

そして10月30日夜、ジャカルタ市内の陸軍将校の家の風呂場で睡眠薬を飲み、両手首を剃刀で切って浴槽の中で失血死しているのを発見されたのである。

咲子の自殺の原因はノイローゼとも、あるいは、スカルノの寵愛が新しくジャカルタに来た日本人女性根本七保子に移ってしまったからだとも言われているが、真実は闇の中だ。

周防咲子をインドネシアに送り込んだのは、中堅商社木下産商(後に三井物産に吸収された)であり、そのバックには岸伸介首相がいたとも言われている。

このことは、国会でも取り上げられたが、もちろん岸は否定している。

彼らは、スカルノ大統領の女性の好みを詳細に調べ上げ、周防咲子に白羽の矢を立てたのだ。

彼女はその期待に応えてスカルノ大統領の寵愛を受け、その結果木下産商はスカルノ大統領の懐深くに入り込むことになる。

木下産商は初期のインドネシア賠償金ビジネスで、大きなアドバンテージを持ったのである。

 根本七保子は自身のステップアップを目指してインドネシアに渡ることを決断する

木下産商のライバルであった東日貿易(後に伊藤忠商事に吸収合併された)も、同じ手法でスカルノ大統領に近づこうとしていた。

その過程で東日貿易社長の久保正雄らが選んだ日本人女性が、18歳でコパカバーナのNo.1ホステスになった根本七保子だった。

木下産商のバックに岸伸介がいたように、東日貿易のバックには自民党副総裁大野伴睦や河野一郎、”昭和のフィクサー”と呼ばれた右翼の大物児玉誉士夫までいたと当時噂されていた。

久保らは、来日していたスカルノに、あるパーティで七保子を引き合わせ、まんまとスカルノの攻略に成功する。

スカルノが来日中に滞在していた帝国ホテルのロビーに根本七保子を呼び出し、”あなたに会いたいという外国の要人がいる”と伝え、二人を正式に引き合わせる。

スカルノ大統領と七保子を引き合わせるにあたって、七保子には報酬として現金500万円(現在の9000万円に相当)と都心の一等地100坪を条件として提示したとの報道が後に流れた。(滋賀夕刊新聞より)

七保子の美貌と賢さにのぼせ上ったスカルノ大統領は、七保子をインドネシアに連れて行きたいと言い出すのであった。

頭が良く、当時の政治情勢にも明るかった七保子は、日本とインドネシアの関係も十分に理解していて、自分が周防咲子とおなじように、政商と呼ばれる男たちに”賠償金ビジネスの人身御供”としてインドネシアに送り込まれるのだということもよくわかっていた。

その一方で七保子は、これは自身のステップアップのチャンスだとも考えていた。

コパカバーナのホステスとしての成功では高が知れている。

インドネシアの大統領夫人になることで、その何十倍もの成功が約束されるだろう。

熟慮の末、七保子はインドネシアに行くことを決断する。

ただし、七保子はスカルノ大統領と日本(政府)の両方に条件を付けた。

スカルノには、”必ず正式に結婚すること”を、日本側には”賠償金ビジネスの窓口を自分に限ること”。

この二つを双方に約束させて根本七保子は単身インドネシアに行くことを承諾したのである。

1959年(昭和34年)七保子はまだ19歳で、人口2億6400万人の大国であり世界最大イスラム教国家でもあるインドネシアへ、東日貿易の秘書という名目で、インドネシア建国の父であるスカルノ初代大統領のもとに旅立った。

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デヴィ・スカルノ大統領第3夫人の誕生

インドネシアに渡った七保子は、狙い通りに賠償金ビジネスの窓口となることができ、スカルノ大統領と日本政府の仲介を見事に実践してみせた。

当時七保子は19~20歳だったが、その存在感は日本政府も無視できないほどの大きさであった。

七保子はその間に蓄財に励み、スカルノ大統領には献身的に尽くし、信頼を勝ち取っていったのである。

七保子がインドネシアに渡って3年たった1962年、根本七保子は正式にスカルノ大統領と結婚して、インドネシア大統領第3夫人となって日本国籍から離れ、インドネシア国籍を取得した。


時にスカルノ大統領61歳、根本七保子22歳、実に39歳差の結婚であった。

スカルノ大統領は彼女に、Ratna Sari Dewi Sukarno(ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ)という名前を贈る。

サンスクリット語でラトナは宝石、サリは聖、デヴィは女神を意味する。

スカルノ大統領は七保子に、”聖なる宝石のような女神”と名付けたのである。

日本人女性で、外国の元首と正式に結婚したのは、令和の現在に至るまで、後にも先にもデヴィ夫人ただ一人だ。

デヴィ夫人には、1万6000坪の宮殿が与えられ、38人の使用人に囲まれる大統領夫人としての生活が始まったのである。

 母と弟の死、運命に翻弄されるデヴィ夫人の人生

この結婚は日本国内でもマスコミに大きく取り上げられた。


一部好意的なものもあったが、大半はデヴィ夫人が金に目が眩んで、大和撫子の貞操を売ったというような批判的な記事であった。

マスコミの取材は、デヴィ夫人の母まさにも及び、デヴィ夫人とその母まさは、激しいバッシングにさらされてしまう。

心労が祟った結果、まさは病い(脳梗塞とされている)に倒れ亡くなってしまった。

さらにその3日後、早稲田大学に通っていた弟の八曾男が手首を切って自殺してしまったのである。

悲しみにくれたデヴィ夫人は、自身が住む宮殿を”ヤソオ宮殿”と名付け、弟の死を悼んだ。

”ヤソオ宮殿”は、現在”軍事博物館”として一般公開されている。

一方で、デヴィ夫人は賠償金ビジネスのキーパーソンとしての地位を確固たるものとし、日本の首相さえデヴィ夫人を無視することはできなくなっていった。

▼首相官邸を訪れ佐藤栄作首相に迎えられるデヴィ夫人(1966年)


デヴィ夫人のお陰で日本とインドネシアの経済交流が軌道に乗ったのは紛れもない事実である。

日本政府や企業は、その後のインドネシア国内の鉄道建設、ホテル建設、水道施設敷設など、インドネシアの多くの事業に参画することとなった。

スカルノ大統領もデヴィ夫人を寵愛し、その能力を高く評価して、インドネシアのファーストレディとして、外国の元首や要人の接待に当たらせた。

スカルノ大統領は、インドネシア国内で絶大な人気を誇っていたが、第3夫人のデヴィ・スカルノも次第にインドネシア国民に受け入れられていったのである。

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スカルノ大統領の失脚、その死後デヴィ夫人は新たな人生を歩み始めた

9月30日事件(軍事クーデター)勃発、スカルノ大統領失脚

スカルノ大統領とデヴィ夫人の栄華は、そう長くは続かなかった。

1950年代の議会制民主主義体制(1950年憲法体制)を葬り去ったスカルノは、共産党を大きな支持基盤としながら権力の1極集中を加速させていた。

これを危ぶむ国軍(国家正規軍)と大統領親衛隊の緊張が高まり、1965年9月30日、大統領親衛隊長ウントゥン中佐が率いる左派系軍人が、陸軍参謀長ら6将軍を殺害するというクーデター、いわゆる”9月30日事件”が勃発する。

スカルノ大統領は、陸軍のスハルト将軍に事態の収拾を命じ、スハルトは直ちにクーデターを鎮圧した。

しかし同年10月16日、陸軍大臣兼陸軍参謀総長に就任したスハルトは、このクーデターにかかわった疑いがある共産党の指導者・一般党員・共産党との関係を疑われた一般住民(いずれもスカルノ大統領の支持基盤)の大量虐殺を行い、インドネシア共産党組織を物理的に解体してしまう。

この血の粛清は、20世紀最大の虐殺の一つとも言われ、50万人とも100万人とも言われるその死者数はいまなお不明である。

従来の親共産主義路線の責任を問われたスカルノは、翌1966年2月21日に新内閣を発表して、政権を維持しようとしたが、陸軍、イスラム系諸団体、学生団体などによるスカルノ糾弾の街頭行動が活発となり、辞任要求の圧力を抑えることができなかった。

同年3月11日、スカルノは秩序回復のための一切の権限をスハルトに与える”3月11日命令書”にサインして、その実権をスハルトに譲ったのである。

権力を握ったスハルトは、スカルノ大統領の身柄を拘束し、軟禁状態にしてしまう。

スカルノ大統領の失脚に伴って、デヴィ夫人もファーストレディ(大統領夫人)の肩書を失ってしまったのである。

デヴィ夫人はインドネシアの日本大使館に亡命を希望するが、拒否されてしまう。

新政権との関係を重視した日本政府によって、スカルノ前大統領と共にデヴィ夫人も日本政府から切り捨てられたのである。

やむなくインドネシアに留まることになったデヴィ夫人だが、第2夫人以外の夫人たちは国外に逃亡している。

スハルトが2代大統領となると、デヴィ夫人への風当たりもいよいよ強くなっていった。。

デヴィ夫人は危険を感じながらも、事態を改善しようとスハルト大統領をゴルフに誘い、幽閉状態にあったスカルノ大統領の解放を懇願するのだが、あえなく拒否されてしまった。

妊娠と出産

その後デヴィ夫人の妊娠がわかり、スカルノの勧めもあって、日本で長女カリナを出産することとなった。

1967年(昭和42年)3月11日、東京都内の病院にて長女カリナを出産。

正式名は”Kartika Sari Dewi Soekarno”、スカルノ前大統領にとっては8番目の子供であった。

出産後の体力の回復を待って、デヴィ夫人は、政治亡命者に比較的寛容であるフランスへの移住を決意する。

軍事クーデター勃発時に、日本政府から亡命を拒否されて以降、デヴィ夫人は日本政府に不信感を持っていたからである。

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パリ社交界デビュー 東洋の真珠と呼ばれ社交界の華となる

1970年インドネシア国内で幽閉状態にあったスカルノ前大統領が亡くなった。

享年69歳。

スカルノ大統領危篤の知らせを聞いたデヴィ夫人は、新政権から入国を禁止されていたのにもかかわらず、インドネシアへの入国を強行、ジャカルタの空港に降り立つとスカルノ前大統領の第1夫人の娘が迎えに来てくれていた。

そのまま病床のスカルノの元に向い、最後のお別れをすることができたのである。

その翌日1970年6月21日にスカルノは、ジャカルタの病院で死去した。

スカルノとは8年間の結婚生活であった。

それは、デヴィ夫人と娘カリナのパリでのたった2人の新生活の始まりでもあった。

この時にスカルノ前大統領の遺産の一部をデヴィ夫人が受け取ったとの情報もあるが真偽は不明だ。

後にインドネシア政府よりスカルノ初代大統領の第3夫人として正式に遺産の分与が行なわれている。

デヴィ夫人は日本のテレビ番組で、インドネシア政府から終身年金を支給されていると語っているがこれも真偽不明である。

その後パリに戻り、カリナと2人の新しい生活がはじまった。

パリの社交界にデビューしたデヴィ夫人は、持ち前の美貌と頭の良さで、たちまちパリ社交界の人気者となる。

類まれな美貌は、”東洋の真珠”と称され、パリ社交界の花形になったのである。

スカルノ大統領が存命中にもかかわらず、二人のフランスの貴族からプロポーズされたとか、伝説の人気俳優アランドロンに口説かれたというような風説が多く残っている。

当時のデヴィ夫人にはひとつ気がかりなことがあった。

それは、インドネシアに残してきた個人資産とスカルノ大統領の遺産の行方である。

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インドネシアへの帰還と長女カリナとの確執と和解

1980年(デヴィ夫人によれば1979年)入国禁止措置を解かれたデヴィ夫人は単身でインドネシアに帰国する。

その大きな目的は、インドネシアに残してきた個人資産の引き上げと、スカルノ大統領の遺産の行方を確認することだった。

個人資産の一部をスイスの銀行に送金することはできたようだが、遺産の行方については諸説あって定かではない。

デヴィ夫人はすぐにパリに戻るつもりであったが、インドネシア政府との話し合いが難航してしまう。

デヴィ夫人は折衷案としてインドネシア国内で政府と共同の石油関連事業を立ち上げ、10年間必死で奔走するが、結局うまくいかず、10年後についにパリへもどることとなった。

娘のカリナには、”用事が澄んだらすぐにパリに戻る”と言い置いていたデヴィ夫人のインドネシア滞在だったが、思いの外長引くことにことになってしまったのである。

デヴィ夫人は、当時のことをインタビューでこう語っている。

1979年、スカルノ大統領の三男が結婚する時にインドネシアに戻りました。
私は自分の娘(カリナ)を一度はインドネシアに住まわせて、歴史を習わせ、異母兄弟たちと仲良くしてもらうことが、妻として、母としての義務と責任だと思っていました。
いよいよ時期到来だと。
そして米英のエンジニア会社やフランスの建築会社、イタリアの重工業会社の総エージェントとしてインドネシアで10年働きました。
私が贅沢な生活をできるのはスカルノ大統領の遺産だとか、大統領のおかげだと思われるのがすごく嫌で、スハルト政権下で私の能力はここまであるんですよって、みんなに示してあげる意気込みで。
意地ですね。朝、秘書たちが8時に来る。
私は7時からオフィスにいて、夜10時まで働いてましたよ。
最後には自分で白亜のおうちを建てました。

実際にはかなり後になってインドネシア政府からスカルノ大統領第3夫人として遺産の分与が行なわれたことがわかっている。

デヴィ夫人がインドネシアに行った時、長女カリナはまだ13歳だった。

すぐに戻ってくると言った母は、それから10年も帰ってこず、自分は母親から見捨てられたのだと思ってしまう。

パリの屋敷に一人残されたカリナは、絶望してしまった。

10年後、母デヴィ夫人が戻ってきても、カリナの心は閉ざしたままであった。

1991年になってカリナがアメリカの大学に進学する際、アメリカで一緒に住もうというデヴィ夫人の提案を拒否して、カリナはアメリカで1人暮らしを始める。

デヴィ夫人はニューヨークの一等地の豪邸に一人で住むことになってしまった。

デヴィ夫人のニューヨークの自宅は、セレブが多数住んでいるパークアベニュー62丁目にあり、築100年以上のニューヨーク市指定歴史保護地区内建造物である。

▼デヴィ夫人のNYの豪邸の様子

デヴィ夫人と同じように頑固だったカリナは、それから一度も母と会わずに暮らしたのである。

2005年にカリナが結婚する際、デヴィ夫人は、結婚式に母として参列することを拒否されてしまう。

何としてもカリナの花嫁姿が見たかったデヴィ夫人は、一般客として結婚式に出席することを許されたのである。

パリに一人残されたカリナの心の傷は、それほど深かったのだ。

デヴィ夫人とカリナが和解するのは、カリナが長男キラン君を出産してからである。

▼デヴィ夫人と孫キラン君

自身が母になったカリナは、母のデヴィ夫人をようやく許すことができたのである。

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デヴィ夫人の生き様が私たちに教えてくれるもの

デヴィ夫人がバラエティ番組で身体を張る理由

1974年、デヴィ夫人がまだパリに生活の拠点を置いていたころ、世界的写真家デイヴィッド・ハミルトン撮影ヌード写真を、男性向け雑誌GOROの創刊号で発表し世間を驚かせた。

デヴィ夫人が日本で本格的な芸能活動を始めるのは、2004年(平成16年)64歳で、生活の拠点を日本に移してからのことだ。

デヴィ夫人は50歳を迎えた時に、100歳まで生きようと決意する。

100歳まで残り50年、悔いのない自分らしい生き方をしようと決めたのである。

自分らしい生き方とは、何事にも好奇心を持ち、チャレンジし続けること。

それを実現するフィールドには日本の芸能界がうってつけだと思った。

テレビ番組に出て、人々の注目を集めることも生きることへのモチベーションの1つになった。

良くも悪くも人々の間で話題になることがデヴィ夫人にとって、若さを保つ秘訣でもあった。

デヴィ夫人の生き様が私たちに教えてくれるもの

何ものも恐れず、誰にも忖度せず、泣き言を言わず、年齢を気にせず、常にチャレンジし続けるデヴィ夫人の生き方は、世間の目を過剰に気にかけ、他人に忖度する生き方をしている多くの日本人には、眩しく、羨ましく、時に鬱陶しく映る。

今よりずっと男性優位だった時代に、たった一人で自らの生きる道を切り拓いていったデヴィ夫人。

その自信が現在の生き方のベースにあるのだ。

高所恐怖症だったデヴィ夫人が、70歳を超えてスカイダイビングに挑んだり、秘境の地に赴きロープ1本で断崖絶壁を降りたりする理由は何なのか?

デヴィ夫人は自身のブログで、こんな風に綴っている。

そもそも挑戦することに年齢制限なんてないでしょう?
それに自分の限界は自分が思っているよりずっと先にある気がします。
一度きりの人生、果敢にチャレンジしましょう♪

デヴィ夫人の生き様から私たちが学ぶべきことは少なくない。

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  1. […] 引用:https://susumu2009.xsrv.jp/ […]