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SONYが乃木坂46を手掛けた理由~AKB48の借りを乃木坂46で返した秋元康~

アイドル

SONYグループとAKB48の因縁~2億超の負債を抱えてAKB48からの撤退を余儀なくされたSONYグループ~

多額の負債を抱えたままAKB48プロジェクトからの撤退を余儀なくされたSONYグループ

2005年7月、会いに行けるアイドルをコンセプトとして第1期メンバーの募集が始まった秋葉原48プロジェクト(後のAKB48)は、秋元康氏から生まれた星の数ほどのプロジェクトの一つである。

2005年12月、グループ専用のAKB劇場での毎日公演が始まったが、初ステージの観客数は(関係者を除いて)僅か7人、観客よりも出演者の方が多いという苦しい毎日が続いていく。

初代劇場支配人の戸賀崎智信は、秋葉原の駅まで出向き、メイド喫茶の地図を眺めている学生たちに“もっと面白いところがあるよ!つまんなかったら帰っていいから。”と声をかけてAKB劇場に連れて行き、無料で公演を見せるという怪しい動きまでしていた。

そんな中2006年10月、AKB48のメジャーデビューシングル“会いたかった”(インディーズ時代を含めれば3枚目)のリリースを引き受けたのがSONY傘下のデフスターレコーズだった。

広報担当となったデフスターレコーズ西山恭子は、デビューCDが詰まった紙袋を両手に提げ、メンバーを引き連れて、雑誌社や新聞社・テレビ局などに挨拶回りをするが、受け取ってはもらえるものの、右から左にデスクの隅に置かれてしまうという辛い経験をしている。

デフスターとAKSが全力を挙げてプロモーションをかけた3枚目のシングル“会いたかった”でも、インディーズ時代(AKSからリリース)に発売した1st「桜の花びらたち」(オリコン初登場10位、累計4.6万枚)や2nd「スカート、ひらり」(オリコン初登場13位、累計2.0万枚)から大きくブレークすることは叶わず、累計5.5万枚に終わってしまった。

その後7thシングル“ロマンス、イラネ”までをデフスターレコーズレーベルでリリース(2008年1月23日)したのだが、いずれも2万枚前後にとどまり、AKSもデフスターも大きな赤字を抱えることとなってしまった。

それを解消するべくAKSは、8thシングル“桜の花びらたち2008”(2008年2月27日リリース)で大きな勝負に出る。

8thシングル“桜の花びらたち2008”のプロモーションとして、秋葉原の「AKB48劇場」でシングルを買うとメンバーのソロポスターがプレゼントされ、44人全員のポスターを揃えたファンだけをAKB48のイベント「春の祭典」に招待すされるという抱き合わせ企画を発表したのである。

しかし、シングル購入時にポスターの種類を選べないシステムになっていたため、買ったシングルの多くは捨てられる運命にあり、44枚すべてをそろえるためには、CDを買ったファン同志が交換・売買をしなければならないという問題が生じてしまう。

これに対して、ネット上では「違法すれすれの悪徳商法ではないか」などと批判が高まり、さらにネットオークションにポスターが多数出品されるという「過熱現象」まで起きてしまった。

このような事態を受け、デフスターレコーズは2008年2月28日、公式サイト上で、
「AKB48劇場販売の限定特典ポスター (メンバーソロカット)ならびに44枚コンプリート『春の祭典』ご招待企画におきまして、ファンの皆さんの加熱を招いてしまったことを深くお詫び申し上げます。当企画の『桜の花びらたち2008』発売に伴う『春の祭典』ご招待施策が『独占禁止法』上の『不公正な取引』に抵触する恐れがありましたので、AKB48『春の祭典』の実施を含め、施策を中止とさせていただきます」
としてポスター景品商法と「春の祭典」の中止を発表する事態に追い込まれてしまう。

そしてデフスターレコーズは、劇場で新作CDを2枚以上買った人について、返金に応じることになった。

これがデフスターレコーズ親会社のSONY社内で大きな問題となり、デフスターレコーズは、AKSとの“AKB48のコンサートDVDおよび劇場公演DVDの企画、制作、製造、販売業務等の契約”の解除を余儀なくされてしまうのである。

結果として、デフスターレコーズとその親会社であるSONYは、巨額の累積赤字(秋元康によれば2億超)を抱えたまま、AKB48プロジェクトから撤退することとなってしまう。

その後秋元康総合プロデューサーからの要請を受けてAKB48を引き受けたのは老舗のレーベルキングレコードであった。

それからしばらくして皮肉にもAKB48は大ブレーク、キングレコードの収益の大半を叩き出すトップアーティストに育っていくのである。

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”逃がした魚は大きかった”~デフスターレコーズの嘆息

誰も予想できなかったAKB48の突然のブレーク。

秋元康総合プロデューサーからの要請を受けて、軽い気持ちでAKB48を獲得引き受けた結果、まさに”棚からぼた餅”で大儲けしたキングレコード、一方、2億を超える負債だけを抱えてAKB48から撤退して、キングレコードにトンビに油揚げを攫われてしまったSONY(=デフスターレコーズ)という図式が出来上がってしまった。

このことを秋元康総合プロデューサーは、ずっと心の負担に感じていた。

AKB48は何故長い低迷を脱して突然ブレークしたのか?

秋元康総合プロデューサーは、なかなかブレークしないAKB48の起爆剤としてグループの全国展開を摸索していた。

その一環として、2008年5月AKSがAKB48の姉妹グループとして名古屋を拠点としたSKE48の立ち上げを発表する。

そして、SKE48のスポンサーとして京楽ホールディングスが参加したことで、AKB48グループを巡る潮目が変わってくる。

京楽グループがSKE48プロジェクトに参画した一番の狙いは、名古屋のサンシャイン栄や同ビルの活性化を狙図ることであった。

これまでのNTTドコモのような金は出すが口は出さないタイプのスポンサーと違って、SKE48の立ち上げに参加した京楽ホールディングスは”金も口も出す”タイプのスポンサーであり、AKSに対して目に見える結果を求めた。

これに応えるように秋元康総合プロデューサーは、SKE48のスターティングメンバーオーディションを大々的にぶち上げた。

その中で秋元康総合プロデューサーが“10年に一人の逸材”として見い出したのが“アイドルの原石”が当時11歳の小学生だった松井珠理奈であった。

秋元康総合プロデューサーは”松珠理奈はAKB48の未来だ”と激賞して、AKB48の10thシングル“大声ダイヤモンド”のセンター(正確には前田敦子とのWセンター)に大抜擢する。

これがまんまと当たり、オリコン初登場3位となり、累計売上は前作9thシングルの3倍以上に跳ね上がり、9.9万枚を記録することとなった。

棚からぼた餅のようなヒットに恵まれたキングレコード。

11thシングルからAKB48は怒涛の快進撃を始める。

AKB48の標題シングルは、その後も右肩上がりに売り上げを伸ばしていき、18 thシングル“Beginner”で初のミリオンセールスを達成、次々にリリースされるシングルは、握手会商法の成功もあって、40作連続でのミリオンセールスという前人未到の記録を打ち立てていくのである。

秋元康総合プロデューサーに頭を下げて頼まれて、いやいや引受けたはずのAKB48は、ついにキングレコードの収益の大半を叩き出すトップアーティストになったのである。

キングレコードにトンビに油揚げを攫われた格好になってしまったデフスターレコーズは、“逃した魚は大きかった”と嘆くしかなかった。

SONYの悔しがりようは尋常でなく、AKB48がブレークした後の2010年7月に”逃した魚たち”というタイトルで、AKB48のデフスターレコーズ時代の楽曲のミュージックビデオ集をリリースしたほどであった。

この経緯によって秋元康氏はSONY(=デフスターレコーズ)に大きな借りができてしまったのである。

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AKB48のシャドウキャビネットとして発案された乃木坂46。秋元氏はAKB48の”借り”返すべく、乃木坂46の立上げをSONYに託す決断をした

ミリオンセールスを連発するスーパーアイドルグループに成り上がったAKB48。

AKB48の将来に一定の目途が立つと、すぐに秋元康総合プロデューサーは、次なる仕掛けを繰り出す。

それは、AKB48のシャドウキャビネットとなるようなガールズグループの立ち上げである。

その構想を聞きつけたSONYは、そのプロジェクトへの参加を目論んで、社内にプロジェクトチームを立ち上げる。

そのリーダーに抜擢されたのが当時ソニーミュージックの第3制作部長だった今野義男だった。

今野は過去に米米CLUBやHysteric Blue、YUI、伊藤由奈のディレクターを担当。沢尻エリカや黒木メイサといった女優の歌手デビューを成功させた実績も持っていた。

当時の様子をSONY関係者はこう語っている。

”AKB48のシャドーキャビネットを作ることについて、もう一度ソニーミュージックから提案させてもらえないかとお願いし、1年弱、秋元先生のところに通いました。
ありとあらゆるアイデアを持って話し合いを続け、秋元さんの中に今の乃木坂の骨格的なものができあがっていきました。
それはのちに、『16人のプリンシパル』(2012~2014年にPARCO劇場などで上演)という舞台につながっていくもので、1幕目を見たお客さんが投票で選んだ配役で2幕目を上演するものでした。
アイドルといっても、もっと芝居寄り、ミュージカル寄りであり、発想は劇団に近いものでした。”

その結果、秋元康総合プロデューサーはこのプロジェクトの受け皿にSONYを指名したのである。

秋元氏の胸の内には、AKB48でできたSONYへの借りをこのプロジェクトを成功させることで返したいという思いがあったのだ。

こうして今野は、新たなプロジェクトで、秋元康総合プロデューサーに対するSONY側のカウンターパートという重責を担うことになったのである。

AKB48では、レコード制作についてのみキングレコードが担当し、それ以外のトーン&マナー(表現の一貫性や世界観を保つためのブランディング)やA&R(アーティストの育成・楽曲提供・宣伝戦略の管理)などは、AKSの劇場支配人や広報が担当するという役割り分担がなされていた。

そこには、お願いして引受けてもらったキングレコードに余計な仕事の負担をかけたくないというAKSの配慮があったからである。

一方のSONYでは、アーティストについてのトーン&マナーA&Rなどすべての作業が社内のアーティスト担当者の裁量に任されていた。

それが大手のレコード会社の伝統的なスタイルであり、SONYが今野を特別に高く評価していたというわけではない。

結果として今野義雄は、乃木坂46についての現場の実務のすべてを取り仕切ることになる。

一方で、乃木坂46のプロデュースの全権を委任されていた秋元康総合プロデューサーの意向は絶対であり、今野にはそれに抵抗するパワーも才能も持ち合わせてはいなかった。

今野にとっては大きな苦労の始まりであった。

今野はAKB48との差別化を図るべく、1期生オーディションのメンバーの選抜作業に入った。

秋元康総合プロデューサーからの今野に対する最初のオーダーは、「応募者の中から50人の精鋭を連れてくる」ことであった。

今野はその時のことについてこう語っている。

(秋元)先生には結果的に最終の一個前の四次審査、100人残ってる段階から見ていただいて、36人の合格者を出したのが乃木坂の一期生ということです。
先生に「よくぞこの人材を集めたな」って言わせないと僕の負けだった。
そこはもう、結構命がけでやりました。
一回スタッフがチェックして落とした子たちのプロフィールが入ったダンボールももう一回見直しもした。
動画で合格した子たちをチェックする時も、一緒に映る落ちた子も当然目に入るわけですよね。
「ちょっと待て、巻き戻して。右から三番目の子、もう一回見ようよ」みたいなことをくりかえしやって集めた100人でした。

今野が決めた選考基準は次のようなものであった。

もちろん、まず、プロっぽい子はダメだなと。
あとは単純に、そのパーソナルな人間性に惚れるかどうかですよね。
この子に何かあるぞ、と感じるかどうか。
それとビジュアル的なことで言うと、洋服が絶対似合うなっていう子にこだわりましたね。
洋服を綺麗に着られる子です。
だから実は、骨格なんですよ。
うちの子たちが全員ズラッと並んだ時にある程度統一した美しさが出るのは、全員脚が綺麗だからです。
この子がアイドルだったらちょっとびっくりするっていうのが基準だったりするんですよね。
橋本奈々未とかは今でもそういう空気感がある。
なんでこの子がアイドルをやってるんだろうって。
そこが面白さなんですよね。

今野がもっとも重視したことが、AKB48との差別化であったのは言うまでもない。

これまでに芸能活動の経験がない子が今野の希望だった。

しかし、乃木坂46結成時のメンバー36人には、すでにモデル経験があった伊藤万理華深川麻衣、日テレジェニック2011候補生だった井上小百合、ミスマガジン2011の衛藤美彩、元ももいろクローバーの柏幸奈、青春女子学園の川後陽菜能條愛未、SPL∞ASHの中元日芽香、SPLASHの大和里菜、CHIMOの畠中清羅など、言い方は悪いが、すでに手垢が付いた多くの芸能活動経験者が即戦力候補として名を連ねていた。

それは一種の保険であり、今野の迷いの現われでもあった。

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乃木坂46の1期生は36人、デビューシングル選抜メンバーは16人、センターは生駒里奈

2011年8月21日、秋元康総合プロデューサーが提案する新たなアイドルグループ”乃木坂46”の1期生オーディションに応募した3万8934人の中から最終審査に残ったのはわずか56人。

その中から36人が勝ち残った。

1期生36名
井上小百合、衛藤美彩、宮澤成良、秋元真夏、高山一実、斉藤優里、橋本奈々未、白石麻衣、深川麻衣、安藤美雲、西野七瀬、若月佑美、生駒里奈、市來玲奈、柏幸奈、斎藤ちはる、生田絵梨花、伊藤寧々、桜井玲香、伊藤万理華、松村沙友理、川後陽菜、吉本彩華、大和里菜、中田花奈、星野みなみ、齋藤飛鳥、樋口日奈、岩瀬佑美子、永島聖羅、中元日芽香、川村真洋、和田まあや、畠中清羅、麻生梨里子(=能條愛未)、山本穂乃香

同時に、36人の中から暫定選抜メンバー16人も発表された。

▼乃木坂46の“暫定”選抜メンバー16人


【前列左から】桜井玲香、秋元真夏、吉本彩華、市来玲奈、橋本奈々未 【中列左から】白石麻衣、生駒里奈、松村沙友理、大和里菜、畠中清羅 【後 列左から】高山一実、中田花奈、和田まあや、星野みなみ、生田絵梨花、宮澤成良

暫定選抜でフロントライン(1列目)に選ばれた5人のコメント
吉本彩華(15・年齢は当時)は「嬉しいというか、この言葉しか浮かばない」
桜井玲香(17)は「不思議な感じ。まさか残れるとは思っていなかったので、夢を見ているよう」
秋元真夏(17)は「自分自身をいっぱい出して頑張りたい」
市来玲奈(15)は「ライバルは前田敦子さん」
橋本奈々未(18)は「私はアイドルらしくないと思っているので、体当たりというところで…ライバルは指原莉乃さん」

36人となった乃木坂46の1期生メンバーから、センター候補だった吉本彩華が突然活動を辞退、押し出されるような格好で図らずも乃木坂46のデビューシングル“ぐるぐるカーテン”のセンターに立ったのが生駒里奈である。

突然の抜擢によって、センターを任された生駒は、自分がセンターであることに自信が持てず、ずっとそのことで悩むこととなってしまった。

吉本彩華のほか、山本穂乃香も2012年9月22日で活動を辞退、秋元真夏が学業優先で一時活動休止となったため、36名となった1期生の中から、デビューシングル“ぐるぐるカーテン”の選抜メンバー16人が選ばれることとなった。

吉本彩華、秋元真夏、大和里奈、畠中聖羅、和田まあや、宮澤成良の6人が暫定選抜から外れた。

代わって選抜入りしたのは、生田絵梨花、川村真洋、齋藤飛鳥、西野七瀬、能條愛未、斉藤優里の6人であった。

“ぐるぐるカーテン”の選抜メンバー(16名)

結果としてメジャーデビューシングル“ぐるぐるカーテン”の選抜メンバー人に入れた芸能活動経験者は、能條愛未井上小百合の二人だけであり、その二人の名前も選抜メンバーからはやがて消えてしまう。

その後、深川麻衣と衛藤美彩の二人だけは、握手会での地道な努力や、人柄の良さがファンに認められて選抜常連メンバーに浮上していくのだが、中元日芽香らの芸能活動経験者は、万年アンダーメンバーに沈んでしまい、不遇をかこつことになってしまった。

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今やSONYの稼ぎ頭となった乃木坂46~乃木坂46は女性アイドルグループの頂点に立ち、秋元康総合プロデューサーはSONYに対する積年の借りを返すことができた~

AKB48との徹底した差別化を目指す戦略は、ついに”清楚で、思わず支えたくなるような儚さ“という乃木坂46のブランドイメージとして結実していく~

乃木坂46は、メジャーデビュー直後から“AKB48の公式ライバル”というキャッチフレーズを正式に採用する。

この時期から秋元氏は乃木坂46とAKB48との差別化についていくつかの示唆に富む発言をしている。

“AKBの真似ではAKBを追い越すどころか肩を並べることもできない”

“乃木坂はフランスのおしゃれなリセエンヌのイメージ”

“楽曲はフレンチポップス路線でいきたい。”

“乃木坂46におけるダンスは「舞踏・舞踊」として位置づける。

ダンスを通じて「劇を演じる」ことによってひとつの作品を提示することが目標。“

こういった秋元氏の発言をその時々でできる限り具体化することが今野の役割であったが、今野にとっては苦労の連続であった。

▼4thシングル”制服のマネキン”のカップリング曲”春のメロディ”のMVについて秋元氏から厳しいダメ出しされる今野氏

そういう状況の中で、”いわゆる乃木坂らしさ“のようなものが次第に形となっていく。

創成期に乃木坂の顏“としてグループを牽引した生駒里奈から、白石麻衣・西野七瀬へと引き継がれた乃木坂センターの系譜は、西野七瀬が醸し出す”清楚で、思わず支えたくなるような儚さ“というイメージで一つの完成形を見ることとなる。

神7の卒業などで、次第に輝きを失っていくAKB48とは対照的に、乃木坂46の人気は右肩あがりに上がり続け、ついに女性アイドルグループの頂点に立つことになる。

そして、16thシングル”サヨナラの意味”で、乃木坂46は初のミリオンセールスを達成する。

こうして秋元康総合プロデューサーは、SONYへの積年の借りを返すことができたのである。

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